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旅の出来事やライブの日々

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旅の記録や印象に残った出来事を綴ります。

2009年12月27日 Phatankot → Dharamsara

パタンコートで一時間ほどバスを待つ間、チャイ屋さんへ。店の人と話していると、なんだか見たことのあるおじさんが加わって来た。
インフォメーションカウンターのおじさんだった。
私と話すために仕事を置いてカウンターから出て来てしまった。お客さんに呼ばれて急いで戻って行った。

バスが来て乗り込む。
大好きなダライラマが住む町で、私はいったいどんなことを感じるんだろう。思いを馳せながらバスの外を見ていると、ぐんぐん山に入り、 すごい早さで夜が更けて行った。

7時くらいに着き、泊まるところを探そうなどとのんびり考えていたけれど、冬の夜は早い。泊まるところが心配になりつつ、でもなるようになるしかないと到着を目指す。

結局、到着した頃には真っ暗で、ここがどこかもわからないので山を少し登ったゲストハウスへ。
軽く食事をとり、微妙なホットシャワーで風邪をひきそうになりながら眠る。

早くメインに移りたいと、目を覚まし外に出た途端に見えた景色が美しく、良い予感を感じた。

急いで駆け込んだダラムサラ一日目のゲストハウスからの朝日

写真は、急いで駆け込んだダラムサラ一日目のゲストハウスからの朝日。

2009年12月28日 SAVE PANCHEN RAMA!

ダラムサラはLower DharamsalaとUpper Dharamsalaに分かれていて。私が泊まったのはLower。
繁華街はUpperらしく。私はそちらに泊まろうと思っていたので移動。でもその前に折角なのでチェックアウトまで散歩。
チャイとチャパティの朝ごはん。チャパティにすっかりハマってしまった。

そしていよいよUpperへ。
LowerからUpperへは頻繁にジープが出ていて、みんなで乗り合って行く。
その光景がまたすごくて、9人乗りのところを15人くらい乗る。ある人は隣の人の膝に座り、運転席の横に座った人は後の人に押され運転手の肩を抱くような形になってしまっている。
思わず笑ってしまったけれど、彼らは至って普通。いや、ちょっと照れくさそうだったかも。

20分ほどでUpper Dharamsalaに到着。決めていたゲストハウスの手前にかわいらしいゲストハウスがあったので部屋を見せてもらい、人の良さそうなそのボーイさんにわがままを言い、 5日滞在するので日当りが良い部屋を貸してもらうことに。

クリーニングを待つ間、併設されているベジタリアンレストランでチャイを飲みながら、そこのオーナーと話す。名前はTenzin。チベット人だ。ダラムサラ生活が始まった。

地図で見ると広く見えるけど、Tenzinによるとここからダライラマのお寺まで15分くらい。私は一時間くらいかと思っていたので驚いた。
でもそんなに近いなら、すぐにラマんちに行ってみようと思い。荷物を置き散歩。

小さなその町は、チベタンの民族グッズやインドのお土産物などでにぎわっている。とても雰囲気の良い場所。なんだかよくわからないまま興味津々にあるいていると、いつの間にかお寺に着いていた。

中に入る前にセキュリティチェックがあり。私のバッグに目薬を見つけた警備員が、僕もほら、と充血した目を見せてくれた。
境内はとても静か、そして薄い黄色にオレンジのコントラストが映えるとてもシンプルな造りになっており。一周して帰ろうとすると、パンチェンラマ救済のフォトミュージアムがあった。

お寺に足を踏み入れた時から、パンチェンラマ救済のポスターが目についていた。

パンチェンラマとは、転生(生まれ変わり)により後継者が決められるチベット仏教の、ダライ・ラマに次ぐ高位の化身とされる人物。 そのパンチェンラマ11世が6歳の若さで中国に史上最年少の政治囚として捕えられ、それから10年が経ち、16歳になる現在もなお、行方がわからないということが記されていた。

そして、ミュージアムの最後にはこう記されていた。

WHITE TO PANCHEN RAMA!
THINK TO PANCHEN RAMA!
TALK TO PANCHEN RAMA!
ASK TO PANCHEN RAMA!

FREE TIBET SAVE PANCHEN RAMA

ガンジーが言っていた言葉を思い出した。 「非暴力不服従」

ガンジーの言葉通り、独立運動中のインド人は、イギリス政府からの暴力の抑圧に対しやり返さず、しかし決して服従せずに自分の国を自分たちの手で取り戻した。

また、ダライラマ14世の講演を聴いた時に彼が言っていた、「人生には愛と勇気が必要」という言葉。

般若心教の教えで「空」というものがあり。それは目には見えないけれどもそこにあるもの、あるのに見えないもの。それを心の目で見極める、という、これは勝手な私の解釈だが、 それは最近、優しさなのではないかと思う。

ダライラマ14世は感情に支配されない毅然とした姿勢を崩さず中国政府と対話しようとしている。しかし中国政府がそれに答えることは依然、ない。

先進国だけど悲しいニュースの多い私たちの国日本。
もしこれが日本だったら?自分だったら?その理不尽な抑圧に、攻撃的にならず感情を保つことができるだろうか?

10代の時からこの激動の中にいて、60年もの間平和的解決を訴え続けているダライラマ14世。
信仰心の強いチベット人はそれに習いこうした訴えを続けているという現実。私は彼らの笑顔に何度も触れる度、ふと針で胸を刺されるような感覚に襲われることになる。

いちばん上へ

2009年12月29日 Shiva cafe

早起きをしたのでお寺に行った後、チャイを飲み。滝を見に行こうと散歩へでかける。

ゲストハウスのあるバグスストリートを山へ向かって歩く。
ゆるやかな上り坂なので気持ちのよい朝の散歩コース。

20分ほど歩いただろうか、小さな村に辿り着いた。バグス村。
そこにはシヴァ寺院があった。朝なのでまだお店は開いておらず、早起きのインド人が何人かチャイを飲んでいる。
彼らに道を尋ね、滝へ。

整備されたゆるやかなカーブの道を15分ほど歩く。朝日がぐんぐん高く上り、山は影となり余計に大きく見えた。と、すぐ滝に出た。
とても小さい。

辺りは見渡す限りの山で、山の向こうにはどんな景色が広がっているんだろうかと思う。好奇心が湧いてきて、少し歩いてみることに。

細い道が途中、何カ所かあり、私は上を目指した。
すると、小さな小屋が見え、なんだか気になり行ってみるとそこはカフェだった。

お店の裏には大きな庭があり、そこには大きく壁に描かれたインドの神シヴァが。その下には「Shiva Cafe」と書かれていた。
すごくかわいくて見とれていると、お店から仙人のようなおじさんと、一匹の犬タイガーが現れた。

シヴァカフェ

仙人にチャイを注文し、外でタイガーと遊ぶ。
滝を観に来たけど小さいね、と言うと仙人はこの道を登って行き山の頂上に行くと、これが観れてとてもきれいだよと、店内に飾ってある写真を見せてくれた。
それは、山のてっぺんで夕日に照らされた小さなステューパの写真だった。

チャイを飲み干し川を渡り、お寺へと向かう。すると、タイガーが私の先へ。
スタスタっと走り。ちょっと立ち止まり振り返る。私を先導してくれるようだ。かわいい。

途中までタイガーに送ってもらい、ありがとうと別れを告げ、細い山道を登って行く。
しばらく登ると上から声が。Shiva Cafeに行く時にすれ違ったインド人女性二人組だった。

二人は石に腰掛け休憩中で。まぁ、あなたも休んで行きなさいよと勧められしばらく休憩。
雨の日に編むための麻を刈りに行くという。

彼女たちと別れ、また先を行く。
結構な坂道で、良い運動になった。先に小さくお寺が見えて来たとき、そこは広く開けた草原になっていた。

そこに寝転がる。辺りには誰もいない。聞こえるのは風の音と葉っぱの擦れる音だけ。

少し前に観た「おと な り」という映画。
人間は心に懐かしい音を持っているという。
その時聞いた音は、私にとって、優しく、懐かしい音だった。

山のお寺

写真は、シヴァカフェと山のお寺。

いちばん上へ

2009年12月29日 Russellとの出会い

お寺は小さく、でもここに建ててもらったら神様ものんびりできるだろうなという眺望の良い場所に建てられており。参拝して下山。

しかしくる途中はしっかりとあった道が見つからず。思い出しながら何回もやり直す。
道をみつけて歩き出すと途中で道がまたなくなり。仕方がないので、街は見えているのでそちらへ向かい瓦礫をすべり下りる。

やっとのことで辿り着いたのは、来た道から川を挟んだ向かい側だった。カフェがある。
行く時にも見えていたそのカフェ。見る限り道のないそこへ、どうやっていくんだろうと眺めていたが、こうやって行くのかと納得。

道を聞こうと入ってみるとテンガロンハットの主人。チャイを飲んで行きなよと言われ、庭へ。
そこには先客が二人いて、ゲストハウスが併設されているそこの住人のアメリカ人だった。

そのうちのひとり、Russellは7年ダラムサラに住んでおり、自然とアートに関するプロジェクトをやっていると言う。
Russellは、何年も人と話してなかったんじゃないかと思うくらい早口に自分のことを語り。
いなくなったと思ったら部屋から友達の写真集や部屋に貼ってあったと思われるダライラマ14世の写真、 お香、小さな花をたくさん私のテーブルに広げ、これあげる、と言った。

そのカラフルでパワフルなRussellの勢いに押され、うんうんと話を聞き、しばらくのんびりして下山した。

そして私はこれから何度も、このRussellに出会うことになる。

いちばん上へ

2009年12月30日 unlucky or lucky?

今日はとてもショックな出来事があった。

昨日Russellが、朝早い時間にお寺に行くとお経を聞くことができると言っていたので、私は朝6時に起き暗い中お寺へ行ったのに、昨日何も言われなかったカメラが今日は持ち込めないと言われ。 お寺に入れず、明日撮ればいいかと参拝だけして帰ったのだ。

昼頃、気になっていた近所のチベタンレストランに入り、「TOMATO CHEESE THENKTUK」を注文。そのレストランの手伝いをしていたチベット人の男の子に話しかけられた。
名前はShenphen。

店内にはギタリストらしき人とダライラマ14世の写真がたくさん飾ってあり。聞くとそのギタリストは彼のお兄さんだと言う。

へぇー、お兄さんギタリストなんだ。いいなーラマと写真撮れて。ところでキミはラマにあったことある?と聞くと。

「今朝会ったけど。」とShenphen。

私の中で一瞬地球が止まり、驚いて聞き返すと、なんと今ダライラマ14世はこの街に帰ってきていて、今朝、30分だけティーチングを行ったという。
今朝お寺にいたのに...と話すと、「you are unlucky...」と言われさらに落ち込む。

あそこにラマがいるなんて。。気持ちは治まらず、美味しいチベット料理とレモネードを頂いた後、「不可能だよ」とShenphenに嘲笑されながら、ラマ探しへ。
そのとき、大晦日に山の小学校で、パンチェンラマ救済のためのコンサートが開かれるから一緒に行こうと誘ってくれ、バイバイした。

お店を出てお寺に向かう途中、昨日友達になった近所のお店のAshiqというインド人が見えた。
私の姿を見つけるなり、大きく両手を広げ、私と会えたことが人生最大の出来事のような笑顔でオーバーに迎えてくれる。

チャイを飲んで行きなよとお店で話す。今朝はラマに会えなくてアンラッキーだったと話すと、「no!you are lucky」とAshiq。
なんでと聞くと、なぜなら今、キミは自分に会っていて、自分はラマよりもパワフルだから!と言っていた。

結局、Ashiqにも無理だと言われながらも向かった寺院で、ラマには会えなかったが、昨日から何度も会い顔見知りになった丸い顔の僧侶に近所のカフェで会い、立ち話。
ラマに会ったかと訊ねるともちろんと言われまた悲しくなり、今ラマはあそこで何してるのかなーと聞くと、今頃は瞑想している時間だよと教えてくれた。

山のお寺

写真は、ダライラマテンプルに置かれているラマの写真。これを見てまた悲しい気持ちになる。

いちばん上へ

2009年12月31日 2009年さいごのひ

日の出とともにお寺へ。日課になって来た。

マニ車を回しながらお寺の周りを一周。お参りをしてダライラマ14世との突然の偶然を期待しつつ帰ろうとすると、
"Gooood morniiiing!!"と大きな声が。振り返るとそれは山のカフェで出会ったRussellだった。
そういえば毎日三時間、お寺の周りを歩いてるって言っていたっけ。

Russellの早歩きに合わせて歩く。手には散歩中に拾った大きな木の実と長い枝を持っている。子供みたい。

通り過ぎる人がみんな、"Hey!my friend!!"とRussellを呼び止め、寝転んでいたたくさんの犬達が一斉に近寄ってくる。 突然立ち止まり、各場所でバナナとオレンジとパンとヨーグルトを買い、バッグの中はパンパン。

そのまま、友達んちが近くで、ギターがあるから行こうよと誘われ隣村へ。 時間は朝の8時。
そこにはRussellと同じように長身で、ヒッピーを思わせる、長髪をおだんごに束ねたAlfreadがいた。

Alfreadの住むゲストハウスは、マクロードガンジという中心地から10分ほど離れたところにあり、陽当たりがすごくよくて広いバルコニーがあり、きれいでキッチンも ついている。ここで1ヶ月を過ごすと言う。

Russellはバルコニーに寝転び嬉しそうに昨日から今日にかけての報告をし、靴下を脱いで"ほら、針で刺したら黒くなっちゃった。"とAlfeadに足の裏を見せる。
"あとこれと、これと、これをあげる。"とバッグをひっくり返しAlfreadと私に交互にものをくれ。

”そうそうカナコにギターを弾いてあげるって約束したんだ”と、Alfreadの部屋からギターを持って来て、ビートルズのBlack birdを歌ってくれた。

そして、降りて来た他の住人も交え、2時間ほど喋りまくり、"じゃ、またあとでね"と帰ってしまった。

しばらくAlfreadと遊び、部屋へ。手紙を描いたり絵を描いたり。集中してやっていたら頭痛に襲われ、薬を飲んだらそのまま眠ってしまった。

荷物をひっくり返すRussell

写真は、荷物をひっくり返すRussell

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2009年12月31日 TIBETAN CONCERT

何時間眠っただろう。ドンドンドン!というけたたましいドアの音で目が覚めた。

寝ぼけながらもドアを開けると、そこにはにっこり笑顔のShenphenが立っていた。コンサートに行くのにゲストハウスの人に部屋を聞いて迎えに来てくれたのだ。
今何時?と聞くと7時だと言う。もう始まってるじゃん!と、急いで準備をして小学校へ向かう。 小さな町だからか、それとも顔が広いのか、Shenphenは3人に1人くらいの道行く人と挨拶を交わすのに忙しそう。

Shenphenのモノマネなどで笑い転げながら小学校に着くと、奥にはライトアップされたステージでもう歌が始まっており。 その横には大きなダライラマ14世の写真と、パンチェンラマ10世の写真、そして6歳の頃に中国政府に連れ去られてしまったため、6歳のままのパンチェンラマ11世の写真が掲げられていた。

署名運動が行われており、しっかりサイン。少しそこに気持ちを乗せることができ、嬉しかった。

ちょうど、男性アイドルのような人が歌っていて、みんなとても嬉しそう。お坊さんもたくさん楽しみに来ていた。顔見知りのお坊さんに会い、挨拶を交わす。

そして、Shenphenの友達と合流。RabgとTenzinだ。僕たちは顔が似ていて同じチベット人みたいだと言った。

RabgとTenzinが、チベットのお酒を買って来てくれた。あたたかくて、色はミルクティのようで、味は甘酒みたいで美味しかった。

出演者がステージに立ち歌い出すと、会場から一人、また一人と上へ上がって行き、歌手の首から白い布をかけていた。
チベットでは、尊敬の意を表すのにしばしばこの”ハタ"という白い布を捧げる。 人気のある人はハタで首周りがふわふわになってしまい、それがなんだか幸せな雰囲気を醸し出していた。

楽しんで見ていると長髪のおじさん歌手がステージに立った。すると隣からShenphenが、「あれは君の大好きなダライラマの一番好きな歌手だよ」と教えてくれた。
へぇー、ラマはこういう曲を聴くんだ。と、ラマがあの笑顔で嬉しそうにこの人の曲を聴いている姿を想像していた。

しばらくすると後方で歓声が上がった。振り向くとそこではShenphenの友達のダンサーが、踊り狂っており。なんだかめちゃくちゃなダンスなんだけど、すごく盛り上がっており。
そして彼はハタを持ち、踊りながらステージに上がり、そのままバックダンサーとして踊り続けていた。みんなで大笑い。

日本だったら即刻誰かが飛んで来て引きずり下ろすんだろうな。でもここではみんな、そのハプニングを楽しんでいるようだった。

歌手の他にチベットの伝統的な踊りも披露され、誘ってもらわなかったら一生観ることのなかったであろう貴重な時間をもらった。ありがとうShenphen。

その後、ご飯を食べに行こうということになり、チベットレストランへ。そこは、来年を待ち構えるチベット人でにぎわっていた。

モモを食べながら、お互いの情報交換をしているうち、私は彼らの中でヒップホップが流行っていることや携帯やパソコンをみんな持っていること、クラスメイトの女の子を見かければ 「オイ、お前話しかけてこいよー」とお互いにけしかけている、日本の若者と変わらない光景を知った。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、0時を過ぎると大きな音で花火が上がり、2009年が終わり。そして、静かな山に爆音と光が飛び散る中、2010年がやって来た。

初日の出

写真は、2010年朝焼け。

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2010年1月1日 森の学校

今日はShenphenとRabgが、Rabgの通う学校へ案内してくれると言う。10時半に迎えに行くと言っていたのでそれまでにお寺とチャイを済ます。が、Shenphenが11時半を過ぎても来ず。
仕方がないのでメールチェックをしに行き、戻っても来た気配がないので諦めてチャイを飲みに行く。

と、いつものAshiqに会い、いつものように体全体で最大の喜びで迎えてくれる。
少し立ち話をし、再びチャイを目指し歩いていると、どこからか私の名前を呼ぶ声が。ShenphenとRabgだった。

よかった会えてー!と、早速学校へ向かうことに。
学校へはまず、最初に泊まったLower Dharamsalaへ、またギュウギュウに詰め込まれながらジープで向かい、そこからバスで30分ほど行く。でもちょうど良い時間に学校へ行くバスがなく、 途中までバスで行き歩くことに。

バスの中、Shenphenは車に弱いらしく前のシートでダウン。私は窓から、初めて見る町の景色に興奮しており。Rabgは、自分の日常に興味を示しいちいち感激している私を面白そうに笑っていた。

私の質問に答えてくれつつ、突然、「ねぇねぇ、日本にはマフィアがいるんでしょ?会ったことある?」と真顔で聞いて来たのには笑ってしまった。

30分ほどで山深い村に到着。そこから歩いた学校までの緑豊かな小道は本当に美しく、チャイを飲みに行くつもりだった私はカメラを持っておらず。。ものすごく残念だった。

学校は自習をしている生徒や、寮に住んでいる生徒がチラホラ。お坊さんもたくさんいた。
彼らの幼なじみでアメリカ育ちの女の子がいて。彼女は両親は今もアメリカにいるけれど、 チベットの言葉と文化を勉強しにこの学校へ入学したそうだ。

ShenphenとRabgもチベット人でインド生まれ。彼らの会話はチベット語だけれども、インド人とはヒンドゥー語、私やその他の外国人とは英語でコミュニケーションを取っている。
インドに住んでいるけどカレーは食べずチベット料理を食べ、でもハンバーガーは大好き。

ダラムサラに滞在していて、違和感がひとつあった。

それは、チベット人とインド人が交わっていないこと。
彼らにとってダラムサラがそれぞれ彼らの町であることには変わりないのだけれど、Shenphen達はマサラ味のインド料理が苦手で、少なくとも私が話したインド人はパンチェンラマを知らなかったし、 あの日のダライラマのティーチングについても関心がないようだった。

学校から戻り、夕方一回別れた二人が、「今日は最後の夜だからギターを弾いて歌を歌ってビールを飲もう!」と、ギターを担いでやってきた。

スナックや唐揚げや、なんだかジャンクフードをたくさん買い、Rabgのパソコンに入っていた"ジャパニーズマフィア"の出てくる映画を観たり。

そして二人のギタータイム。彼らは交互に自分の好きな歌やチベタンソングをたくさん歌ってくれた。
チベタンソングは、なんだか雰囲気が沖縄民謡のようで。とても聴き心地の良いメロディだった。

Shenphenのお兄さんは前述の通りプロのギタリストで、SAVE TIBETの曲を歌っている。言葉はわからないけど、二人が心を込めて歌ってくれたその曲は、胸にじーんときて。 Shenphenが、「悪いのは中国人ではなく中国政府だ」と言っていたのを思い出した。

ShenphenとRabg

写真は、ShenphenとRabg

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2010年1月2日 TASHI DEREK!!

とうとうダラムサラ最後の日がやってきた。夕方6時のデリー行きのバスに乗る。

朝、お寺に向かう途中、また偶然Rassellに会い、後ろにはいつものようにたくさんの犬を引き連れて、早口で朝起きてからの報告をしてくれた。 今日の夕方デリーに向かうことと告げると、"Good luck!"と大きな声で言い、ものすごく強くハグしてくれた。

いつものチャイ屋さんでチャイを飲み、おじちゃんにありがとうと言い、いつものモモ屋のお姉さんに、ここのモモが私が食べた中で一番美味しかったと伝えた。

思えば3日目くらいでこの小さな町の見所は見終わってしまい、のんびりしようと思っていたこの町も少し物足りなく感じ、早めにデリーに戻って他の場所へ行っても良いかも知れないと、 頭をよぎった瞬間があった。
でも移動しなくて本当に良かった。

初めての町。自分の中にその町の日常が突然馴染むことがある。これまでも何度となくあったその感覚を、久々に感じていた。

バスが来るまでの間、ベランダでこの町のことを考えたら、みんなと離れるのが寂しくて寂しくて、こんなに辛い気持ちになるなら来なければよかったと思った。

ShenphenとRabgが見送りに来てくれ、荷物を持ってくれる。チェックアウトをしにレストランへ、鍵を返しありがとうと挨拶するとポロポロ涙が出て来てしまった。
泣く必要ないよまた来年ね、と優しい笑顔で送り出してくれるホテルのみんな。

Ashiqのところへもお別れに。入口にいつもいる彼の従兄弟二人に別れを告げながらもまた涙が。Ashiqに会っても止まらず。接客中だったAshiqがこちらに出て来てお別れをしてくれた。

ふたりに連れられバス停に到着すると、Rabgが「みて。」と指を指す。その先には真っ赤な夕焼けが広がっていた。

バスの荷物入れに荷物を入れようとすると荷物係のインド人に「あと10Rs.」と言われ、二人が抗議。

全くインド人は・・と呆れたあと、「デリーでは知らない人に絶対着いて行っちゃだめだよ、あと、水と食べ物に気をつけてね」と、ひとまわりも年下の彼らに親のようなことを言われ。
本当に出会えてよかった。ありがとうと、それ以上言葉にできず、きっとこうなるだろうと思い用意していた手紙を渡し、サヨナラした。

またひとつ、大切な町ができた。

TASHI DEREK

写真は、チベット語の挨拶"TASHI DEREK"。やぁ、にも、またね、にも使える。Dharamsalaのみんな、TASHI DEREK!!

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2010年1月3日 デリーへ

バスが発車し、夕焼けも消え真っ暗になってしまったダラムサラの町を窓から眺めながらデリーへの12時間の旅。

私は一番後ろの窓際の席だったのだが、前のシートのリクライニングが壊れていて押さえていないとベッドのように私の膝までシートがきてしまう。
その席と隣の席、その周りにはチベット人何人かが座った。

私はその壊れたシートを気にする余裕もなくただただ涙が止まらず。ずっと、ダラムサラで出会えた友達の顔を思い浮かべていた。

しばらく私のその様子をそっとしておいてくれた隣のチベット人が、落ち着いたのを見計らって「前のシート壊れてるけど大丈夫?」と声をかけてくれた。

大丈夫だよと笑い返すと、前のシートに向かっている彼の友達を指差し、「彼ってものすごくツイてなくて、いつもこういう風に変なことが起こるんだ」と笑った。

寄りかかると何度も何度もベッドになってしまうその動きが、まるでコントのようで。さらに誰かが前の方にもベッドがある!と笑い出し、しばしベッドシートネタでバスの中に笑いが溢れた。

チベット人同士のやり取りをみていると、みんな家族のように接しているのを感じ、心が温まる。
彼らはシャイで、でも人の目をしっかりとみて話し、笑顔がとてもとても優しい。

そんな彼らとまた色々話しながら、ジェットコースターのようなその"VIPバス"に揺られ、デリーへ。

早朝、真っ暗な中デリー到着。19時半には空港に行かなければいけないので12時間ほどのデリー滞在。
短い滞在だからと交渉し、半分の値段でホテルにチェックインして散歩に出かけた。

前回来た時も、今回着いた時もデリーを一人で歩くなんて考えられなかった。でも今は、そんな見えないものへの恐怖感は無くなっており。 朝から歩き回り、質問し、交渉しまくり。最後のインドを楽しんだ。

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SHANTI SHANTI

4時間遅れの飛行機はあっさりと成田へ着いた。そして私もあっさりと、東京生活に戻った。

『今回の旅の終わりに。』
私は、優しい人が好きだと思った。インド人でもチベット人でも日本人でもなく、優しい人。

「優しさをもらいに僕はまた旅に出る」と、以前観た映画で歌っていて。それがとてもしっくりきて。今回ずっとそれを感じ、追いかけていたような気がする。

そしてインドで、たくさんの人から優しさをもらい、その優しさが不安を越えたから。だからもう怖くなくなったのかも知れない。

インドはやっぱり魅力的な国だと、改めて思う。次に行きたい国を思い浮かべると、一番最初にこの国のけたたましいクラクションを耳が欲する。

見たことのない密度、聞いたことのない大音量、感じたことのない粘り強さと諦めの早さ、そして深い祈り。
私の常識をくるくると覆す、この国を形作る様々な要素に、私はまだまだ興味を失わずにはいられなさそうだ。

SHANTI SHANTI.

"Peace"を意味するこの言葉を何度も友達の口から耳にした。この言葉を発するときのみんなの顔は誇らしげで。それを見るのが好きで、何度も"あれなんだっけ?"と聞き返した。

色鮮やかで誇り高きチベット文化がこれ以上失われませんように。そして一刻も早くチベットを彼らの手に。shanti shanti.

TASHI DEREK

写真は、魔除けと祈りの旗「ルンタ」。すべての生きとし生けるものが平和で幸福と健康に恵まれて過ごせるようにという祈願が込められている。

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